昭和53年01月21日朝の御理解
御理解 第53節
「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
本当の信者を目指す本当のおかげを受けて現す。所謂本当のおかげを頂きたい、本当のおかげというのは、人間の幸せのあらゆる条件が足ろうて来ると言う事だと思う。それには一朝一夕に頂けれるとは思われません。体験に体験を積んでそしてああ成る程神様のお働きの中には無駄はない、もう本当にあれもおかげだこれもおかげだと今まで知らなかった。おかげの世界が愈々広うなり、そのおかげの世界に住まわせて貰う、そういう境地が開けてくると言うのですから。
それこそ一朝一夕で頂けるとは思われませんけど。やはり私共の願う焦点眼目と言うものが、そこの中になければいけない。それを合楽ではまあいうならば有り難う楽しう、そして愉快にさえ頂けて行く行き方で。その事を明け暮れ説いとるわけです。ですからそれをね皆さんが身に着いて、この調子で行けば自分もそういうおかげも頂けるなあという、確信を持って信心を進めて行くという。
私は昨日研修の時に人間の幸福と言う事は、只の宗教心があるとか信仰しておるから、幸福になれる事は絶対ないよと。そういう意味あいで金光大神から教えられた事を守って。そしてそれを高めて行くという、そのまあ金光大神の教えられた事も、まあ言うならば漠然としたり、余り平易に説いてあるので深く分からなかったり、感じがするのですけど。合楽ではこんなにも間違いないんだ、こんなにも絶対だと言うて、合楽理念は説いてあるわけです。ですから合楽理念を以ってするより人間の幸福はあり得ない。
これは先日富久信会の時に会長さんの佐田さんからお届けがあっとった。それはもう商売人ばっかりの集まりですから。商売と信心と言った様な事で、いつもお話を頂くのですけど、何というても最近私が感じますことは。もう百姓をするならば合楽理念を以てする外はない。商売をするなら合楽理念を以てする外ないと言う様に。何をするにしてもです会楽理念を以てする外はないと。言われるのですからこれは根本にもっともっと、合楽理念を深く広く判らせて貰うことのために。
まあ合楽理念を語るという、薄いパンフレットの様なものがここから出とりますが。あれを一年掛かり位で、所謂合楽理念を語るシリ一ズの様な、ここで毎月お話をして頂きたいと思うんですが。というお届けがあったのです。そこで今月この十五日の富久信会の時に二頁ぐらいの話に一時間半ぐらい掛ります。だからこれは一年掛りで説かにやいけんなと言う事を要った事でしたけどね。それが本当に身に付くと言う事がです。言わば本当の信者になる事が出来るのであり。本当のおかげを受ける事が出来るんだと。
唯此処では親先生任せになればおかげを頂くというてもです。その事のおかげを頂くための親先生任せではなくて、今日私が頂くのが帆掛け船がね。それに竿までついとるまあ浅い所は竿で指すと言う様な。それで愈々深い所へ出たら櫓になったり、又は愈々帆を上げていうならば満風を帆に受けて。そして愈々所謂神様まかせの行き方、というものが出来る用に、こりやもう場合にはこれでもう転覆するのではなかろうかと。もう帆を降ろそうかと思う様な時もありますけど。
そういうなら疾風の様な風が却って思いも掛けない様な。思いも掛けない大きな港に着かせて頂くんだと。言う様な風に説かれておりますよね。神様任せと言う事は船は帆まかせ風まかせ、神様任せは親先生任せと言った様な行き方を、合楽で段々身につけておりますけれども。それがねその帆掛け船がね水も何もない、宙天にある所を頂くのです。ですから本当に地についた信心が出来て、神様まかせにならないと本当のおかげにも、徳にもならない事だと言う事です。
それでもその中間には色々の事があります。これは親先生任せになるとこれは漬されるのではなかろうかと。これは親先生任せになると違うとるとぢやなかろうかと、まあ言う様な事でございます。先日竹内先生のところの運転をなさる方が、赤ちゃんが出来たそれでお名前を頂きたい。何か伊万里の人達がそんなあそこは何人もですね。お腹の中の赤ちゃんのお名前を頂きたい、もうこんな事はいけないこんな事は本なこっちやないですよと。言うてハイハイといいよんなさるごたるけれども。
やはりお名前を頂きたいとこう言う、で神様にお願いさせて頂いたのですけど、そしたら寿緒と言う事を頂いた。寿緒というのも寿の緒と頂いた。緒というのは緒に付くという下駄の緒の緒です。ですから今までならおんななら花子、男なら太郎と言った様なはっきりした。けども男やら女やら分からないと言った様な感じです。けどこの緒というのは男ならば夫と言う字か雄と言う字か、いろいろですけど緒と言う字を頂いたから。そして御理解にここんところを永年ここに先生を送って来るんですが。
本当に願われたとか拝まれたとかいうのはこんどが初めてです。それでまあ御理解に寿の緒につくという御理解なんです。例えば今まで不運であったけれどもこの子供が産まれたのを境に、おかげの言うなら緒につくというわけなんです。ところが娘さんが産まれられた。だからこの寿緒でよいでしょうかと言う電話が掛かって来た、そりや好いですよとおかげを頂いておかげの緒につく様な、そう言う様にですね例えばお伺いしてもそれこそ迷う様なことが起こって来る。
先日も昨日一昨日でしたか佐田さん所の長女典子ちゃんが、大学を卒業してえらい良いところへ就職が決まりました。沢山の中から選ばれたわけです。所が英会話が出来なければいけないというので、英語の塾に行く久留米に五軒塾があるからどれに行ったらよかろうかと言うお伺いでした。それで私は真ん中真ん中と頂いたから真ん中に丸をつけた。そしたらこちらから電話を掛けたのか。
あちらから電話が掛かって来たのか、私は分かりませんが先生今御神意を頂いて頂いた、その学校だけが閉鎖しているんだそうですと言うことなんです。真ん中ですやっぱりそしてこういう学校が、もう一つありましたというのです。だからそれに決めなさいとこういう。皆さんどういうふうに思いますか、神様もよい加減なこと言いなさると一寸感じますよね。在りもせんところに丸をつけて下さった。
もう止めとる所に丸をつけて下さった。「それで典子ちゃん真ん中のここげなよと言ったらその学校はもう閉鎖になっとるとこういう。けどもう一つそういう学校があったげなというたらそれに決めなさい。」よっぽど信じて伺はなければその通り出来るこっちやありませんですね。真ん中ちいいよんなってまたそこんところを間髪入れずでした。こういう学校がもう一つあると言う事が一諸にわかった。そしたらその学校にしなさい。だから少し信心を突っ込んで考えると意味が分かるんです。
そのお名前の事だって今の事だって。神様のどういうご演出の中にある事かと分かるんですけど。まあそんなことじゃありません。もう本当に生か死かつぶれるかつぶれないかと言う様な、それこそ風まかせで行っている時には大きな波風を受ける様な事があるけども。それこそ亀にまたがったが最後亀から離れん様な行き方を、愈々身につけて行かねば竜宮には辿りつかん。こりや危なかというて離したら本当に溺れてしまうことになる。事実はいくらもあります。
だから本当のことが分かることのためにはです。そこをやはり貫かなけなければならないと言う事です。断片的にそれもおかげこれもおかげでなくて、根本的にあれもおかげである、これもおかげである。あれはおかげになってみておかげじゃったなあと分かるけれども。これと言う事は現実ふんまえておる。迷いが起こる様な事柄であっても、これはこれがおかげだと実感出来れる信心、あれもこれもおかげと言う事はそこにです。おかげの世界を感ずる事が出来る。
眼に見えるおかげより眼に見えぬおかげの方が多いと、今日は皆さん人間の幸福と云うのはね然もその幸福が子にも孫にも。子々孫々に続いて行く程しのための言うならば信心は今合楽で言っておる合楽理念より外にはないと言う事を。大体強調しとるわけですから、皆さんそのつもりで聞いて頂かねばならん。もう本当にこの人程親先生任せで行く人はなかろうと思われる方の事を、御祈念の中に願はして頂いとりましたら。その天から飛び降りたという感じ。もう大きなパラシュ一トの様な。
いうならば衣というか衣をまとうて天から飛び降りて。それが大きなパラシュ一ト代わりになって、フワリフワリト降りて来るわけ、これが地に着いた時が愈々その人は、天衣無縫の徳を受けたと言う事になるのです。人間の幸福はこの天衣無縫のおかげを受けなければ駄目です。それも普通一般で言う天衣無縫でなくて、私がいう天衣無縫です。あれは何とかいう私によう似た絵かきさんが居ったでしょうが。ちっと頭の足らんごたるとの何とかいいよったね。
ああ山下清さん、あれはよう親先生に似とるという人があったが。成る程頭の恰好だんよう似とるですもんね。内容も似とるわけです。あの人の行き方を天衣無縫と云いましたね。東京から鹿児島まで歩いて行く金がありゃ乗る。無からにゃ歩いてトンネルの中でも何でも真っ黒にすすけて出て来る。食べん時には何日でん食べんと言った様な行き方をです。天衣無縫という風にいつか新聞に書いてありました。山下清さんは天衣無縫の行き方をした人だと、私のいう天衣無縫はそうじゃないですもんね。
あぁお茶が飲みたいなと言ったらお茶が集まって来る。それには必ず羊羮まで付いてくる。天衣無縫というのは神様が与えられた着物なんです。だから痩せても丁度よい肥えても丁度誂えた様にある。それを天衣無縫というのです。私はこれを二十年ぐらい前に天衣無縫と言う事を頂いた。皆聞いたけど意味がわからん、久保山のお母さんからその事を聞いて、家で古い字引きを引いたら、先生天衣無縫が付いていました。それにいろいろ説明が書いてありましたが、そういう意味の事が書いてありました。
してみると椛目合楽を通して頂いたおかげと言うのは、本当に天衣無縫のおかげであったなあと思うんです。愈々本当に今まで気がつかなかったところにも、おかげをおかげとかんずる、所謂神の大恩が分り神のおかげが分かって来た。愈々成る程神様の働きと云うものには無駄が無いんだなあ。と言う事を実感しそれが私の信心の要となり確信とも段々なって来た。成る程親先生任せになればおかげになると、断言して言う事もできる。成り行きを大事にして行きなさいと言う事もです。
それは最近では御神願有り難うございますとお礼を申し上げて、受けて行きなさいという風にも言っているわけです。そういう行き方がです身に付けて来た事を私自身ふり返ってみると、本当に何というでしようかね。まあ危ない危ない危険を感ずる時にでもです。どういう行き方で行ったかというと、もうままよと言う心でおかげを頂いた。神様がこう右と仰るから右、それがもし潰れるならばそれが死ぬならば死んでも好い。潰れてもかまわんこのままよの心というものがです。
教祖が仰る十二分の神徳を受けようと思えば、ままよという心になれよと。そのままよという心もです。段々少しづついうならば親先生まかせ的な信心を、させて頂いとる間にです腹が出来て来る信心の度胸もまた据わってくる。場合にはそれこそ天から飛び降りる様な思い切った事も、それこそままよであるから飛び降りる然もそれがパ一ツと降りるのではない。いうならばパラシュウ一トを持っておるなら天衣を身につけておる。だから降りておる間はやはり危険を感じたり、どうなるだらうかと思っておるけれども。
それがフワリフワリと降りてきて、それが足が地についた時初めて、その人は天衣無縫の徳を受ける事が出来る。天衣無縫の徳というのは、もう子にも孫にも伝わって行く程しの事であり。人間の幸福を日々感じさせて頂きながら、生活が出来るという程しの事なのです。そんな大変な事をここでは日々皆さんに聞いて頂いている事になります。天衣無縫のおかげ一朝一夕にして頂けるとは思われん、それこそ地に着いた信心そして信ずる力は愈々強うなって行くという信心。
真を表して行くと言う事は愈々本当の真が表して行ける信心、一切合財を合掌せれれる心の状態を積み頂きながらの。信心生活をさして貰う、天地の間との交流というか交渉というか神様を身近に感じて。いうならばリズムに乗った行き方が日々出来て来る様になる。今日は私は家の修行生の方たちの事を、毎日まあお願いするのですが、お願いさして頂いとったら頂くことが。あの何とかという落語家がおりますがそれが歌舞伎役者のごと、落語家が扮装しておるところを頂くのです。
それでどう言う事だらうかと思ったら。金光様の先生というのは言うなら私を見習うと言う事ですが。私の話やら私の行うておる事がやらを、身に付けて居って私のギリギリの信心というものを身につけて、言うならば唯の噺家ではいけん。話が上手になっただけぢゃでけん。私はここ二三日太郎先生がここ一年余り書いておる。御理解をまとめておるのを或る事情があって読ませて頂いているのですけど、これ程熱心に御理解をまたそれに自分の感じ感想と言うものを書いて、これだけ一心に勉強してゆきよる。
だから例えばそれを神ながら開いたらもうそこに、確かに人にお話の出来る位の材料がいっぱいに書いてある。素晴らしい合楽での言うなら神人神ひと。から生まれて来る素晴らしい御理解というふうに。或る人が行っておるが、そういう御理解を身につけて行って、人にも伝えて行ける程のものがあるけれども。それが上手に伝えられただけではつまらんと言う事。言うならばずうから合楽理念を本当にマスタ一しただけではなくて、それを自分のものにしょうとする。
精進が欠けておるという意味に感じたのですけれども。これは御信者の皆さんだって同じことですね。合楽理念の説明が出来るだけぢゃでけんです。それをやはり身に付けて行かにゃいかん。そう云う意味でですね。例えば皆さんの場合は身に付けて行きよる、もう実生活に立っての信心ですから、おかげを頂いたと言う事もあれば間には。ここは度胸を決めなければならんこともある。ところが先生方の場合は案外ね唯お道の教師を志して、どうぞあなたの手にも足にも使わせて下さいという。
まあ一心発起して命を神様に預ける様な所に、もう安心が出来とる様な感じがする。ためには私に力を与えて下さいという信心がいるのです。唯お話を覚えただけではいけんのです。やはり力が必要なのです。所がその本気で力を頂こうと思ってもね。その生活が掛かってない訳です。先生方には着る事食べる事には安心しとっても良いわけです。人間ちゅうものは弱いだから本気で信心をずうから頂こうとする。もう言うなら会楽では御理解を頂いて、研修する位がいっぱいと言えば一杯位はある訳です。
それを身を以て表して行く。昨日研修の時に中村徹美君が発表しとりました。二三日前遠方から参って来る、もう長い信者さんですが、あんまり嫁御にも人にも親切にされないというお婆さんが参ってきます。何か不平不足をいっぱい胸に持っているという淋しい感じなのです。その日は丁度寒い日に暖房が入っていなかったのです。だからおばあちゃんこっちに入りなさらんか、と言うてスト一ブを持って行って控室に火を入れてやった。それがよっ程うれしかったらしい。
昨日の御理解からいうとです、もういうならばです世の片隅の吹きだまりにあると言った様な人を、わが子の様な思いをもって徹美君はわが親の様に思うて。成る程余り人に好かれないお婆ちゃんなのです。だからそう言う様な人にもむしろ親にかける情というものを、掛けさせて頂いておばあちゃんこちらに入りなさいスト一ブを入れますからというて、よっ程うれしかったらしいのです。
翌る日参って来てからのノ一トを二冊持って来た。先生どうぞこれを使うて下さいそしてノ一トだけなら無くなったらすぐ云うて下さい、とおばあちゃんが言われたと言うのです。ほうそんならノ一トだけなら無限に、限りなく頂かれるじゃないのといって、いった事でしたけどね。本当に自分も嬉しい、相手もうれしいが神様も喜んでおられることが分かりますね。人の相手にせんごたる人そう言う人をむしろ大事にする、心の状態が素晴らしいのです。
昨日皆の研修を聞かせて頂いてからもう、今日の御理解を地で行って、もう今の話が一番だというて。昨日聞かせて頂いたことですけどね。そういう真実をねどこででも表せれるおかげを頂かねばならん。ためには自分の心にはいつも神心が動いておらねばならない。自分の都合のよい自分に都合よくして貰はんならん人のためには、もうそれこそ無いものでもある様にして出そうごとあるけれども、自分に都合のよくない自分にはあまり便利にならない。いや虫が好かないそういう人をです。
私は信心させて頂く者は段々神心が強うなって行くならばです。大事にする大事にするからそこから無限に繋がるおかげに繋がるのです。私はこれは体験を言うなら沢山あります。そういう例は北野に古賀さんというおばあさんが参ってきとりました。もう御理解を頂いて丁度善導寺の教会に見えて、その古賀さんの話を聞くことになりました。ところが話がもうとんちんかんちんで、誰も聞きはせんで向こう向いたごたるふうで、タバコ吸うたごたるふうで聞かんわけです。
だから私はそのおばあちゃんが、一生懸命話ござる風が有り難いと思うたんです。私はおばあちゃんの顔を見てから一生懸命そうの、そうのというふうで聞いたらもうお話が終わった時に。もうその時分に、私の事を先生先生というて言ってました。先生私の話を聞いて頂いて大変有り難かったというて喜ばれた。それから私が椛目で人が助かる様になってから、どれだけの人をお導きしたかわからんです。もうどれだけ椛目でお役に立つたかわからんです。あの一番初めにお風呂のお供えしたのもその人です。
北野の方たちはよう覚えておられるだらうと思います。だからねあげなばばさんのしかともない話ばと言うのでなくてから、それを親身に聞けれる心なんです。そういう例を言うならいくらもあります。そういうものがです私は段々育って行って初めてです。そう云う人の向こうにです、こういう嫌な事柄のむこうにこんなにも限りないおかげがあるんだと分かる時に、おかげの世界が広うなって来る。
ならあれもおかげであったこれもおかげであったと、言う事になるでしょうが。そういう信心を私は積み重ねて行きながらです。本当の信心を目指さなければいけない。その真実の信者それが私は本当のおかげ、それを今日は真実のおかげとは天衣無縫のおかげというふうに聞いて頂いた。なら天衣無縫のおかげを頂くと言う事は、場合に依ってはそれこそ。天竺から飛び降りる程しのです。
度胸のいる様なこともある、風まかせ神様まかせで行きよりや、もうこれで吹き飛ばされるぢゃなかろうかと言う事もあるけども。そういう時に愈々信心の度胸をつけて、言うならばままよという心は死んでもままよと仰る様な信心のどん腹が出来てです。初めて私は子にも孫にも伝えられる程しの、言うなら人間の幸福の条件というものがです。金とか物とか健康とか地位とか名誉とかと、様々にありましょうけれどもそう言う事ではない。信心に依る天衣無縫です。
思うただけでも、あぁあれが飲みたいなあと思うたら、そこに飲みたいものがある、あぁあれが食べたいなと思うたら、その食べたいものが。そこにある様なおかげを受けられる事実をね。どうぞ皆さん私を見て下さると大体分かるでしょうが。これがもっともっと垢ぬけする、これがもっともっと大きく、偉大になって行く事には限りがありません。それにはなら小さい事からいうなら、昨日徹美君の発表じゃないですけど、人が余りかまわん様な人にでも、神心が動く様な心の状態をいよいよ頂いて行くこと。真実の信者には真実のおかげが伴うね。
なら真実の信心を愈々有り難く楽しく、しかも愉快に身につけて行けれる手立てを、合楽理念を以てする外はないというおかげに、繋がって来る訳ですね。どうぞ一つあらゆる宗教でですね。例えば一心不乱に拝んだり参ったりして命が助かったとか、この道がひらけたとかこれは宗教一般にあるのです。けれどもこの天衣無縫のおかげの受けられるという信心は。そりゃ深い教理というものがありますから、その教理をあらゆる宗教者の教理というものを極めて行けば、まああるかも知れませんけれども。
それをね楽しう愉快に教えると言う事がないです。例えば酒を飲んぢやならん女は寄せつけちゃならんと言った様なそう言うけわしい、言うならば教えでなくてです。金光大神の教えは人間の誰しもが言うなら楽しく出来れる有り難く頂いて行けれるという教えなんです。その教えをです私共が今まではそういうふうに頂ききらなかったんです。それを合楽では合楽理念と言って皆さんにそれを聞いて頂いた。
そしてそれを段々身につけて行っておる人たちが、百姓は合楽理念を以てする外はない、お商売は合楽理念を以てする外はない、と極まった時にです。言うならばこの53節の内容というものが愈々身について来る。そしてそこから天衣無縫的なおかげを頂きそしてそれを日々感じることが出来る。そこに真実の信者真実のおかげ真実の徳所謂子にも孫にも伝えて行けれるもの。そういう言うならば遠大なそして深遠な、そういう信心を日々こうして稽古をさして頂いとるわけですよね。
どうぞ。